![]() | 三国志 (1の巻) 北方 謙三 (2001/06) 角川春樹事務所 この商品の詳細を見る |
「英雄」とは、熱すぎる夢をいつまでも持ち続ける人のこと。
「英雄」になるには、才能は不要。
敢えて言えば、「夢を持ち続ける」という才能だけが必要。
これはずいぶん昔からのエノモトの持論でして。
そういう意味では、この『北方三国志』にも何人かの英雄が出てきます。
が、英雄論は置いといて。
あ、念のため、エノモトは三国志に関しては、これがデビューです。
三国志演義や正史三国志はもちろんのこと、吉川三国志も未読。
吉川三国志に至ってはは、実家にずっとあって、何度もチャレンジしたが1巻の三分の一ぐらいで常に挫折したという、ある意味珍しい本でした。
なんでだろう。『宮本武蔵』は徹夜して読んだのにねー。
で、北方三国志では英雄たちのまわりに、数々の「才能」のある人がでてきます。
北方三国志を読んで、一番考えたことが、「才能」っていったい何なんだろう、ということでした。
三国志中で「才能」ある人といえば、誰もが知ってる諸葛亮孔明始め、対する魏の司馬懿仲達、呉だったら周瑜あたり?
三人とも、その「才能」が文とも武とも分類できない、極めつけの能力の持ち主たち。
それぞれの主君の補佐をするだけでなく、自分で「国とはこうあるべき」という構想、しかも実現可能な構想を抱いちゃうことができる、いわば「プチ英雄」たち。
でも、「才能」ってそんなにすごいものか?
と、天邪鬼のエノモトは考えてしまったわけです。
「才能」っていうのは、人間の持つたくさんのいろんなキラキラしたもののほんの一部であって、それが全てを凌駕するというわけじゃないのではないか、と。
「才能」というのは、環境やら努力やらなんやかんやもあるけれど、多分に持って生まれたものが大半で。
別に、努力が大切だとか、思いやりって必要よね、とか、そーゆー道徳の教科書的なことが言いたいわけじゃなくて。
例えば野球で言えば(例えが野球ばっかりでスマン)、足が速いとか肩が強いとか、ヒットがたくさん打てるとか、そういうのが才能で。
もちろん野球の世界では、足も遅くて肩も弱くてヒットも打てなくて、という輩は用無しですが、『三国志』の世界に生きてる人は、戦国の世を生きてるわけで。
その戦国の世を生きていくにあたって、例えば抜きん出た才能がなくっても、それはそれで、みんな何かしらキラキラとしている。
んー。ただの「人生」じゃなくって「戦国」を生きてるってとこが、キラキラのポイントかもしれません。
馬超につられて曹操に反抗してみたはいいけど、あっさり離間の計にかけられて、日和っちゃう名前も出てこない漢中十部軍の面々とか、孔明先生に我が子とまで思われながら、先走って孔明の天才的な戦略を無茶苦茶にしちゃう馬謖とか、ひたすらなーんにも考えず曹操だけを守る許褚とか、最後まで他人の力をあてにして滅びる張衛とか。とりあえず悪役の董卓だって。ショボさ満載の袁術も。
とりあえず才能があるとは言えない。
でも、みんなキラキラだなぁ、と思うのです。
どっぷりつかれる13冊でした。
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